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水戸地方裁判所 昭和30年(わ)284号 判決 1958年7月11日

被告人 斎藤幸亥

主文

被告人を無期懲役に処する。

押収にかかる鉄製黒塗手提金庫一箇(昭和三〇年押第一〇四号の二)はこれを被害者南霊光に、同中古白毛糸セーター一着(同押号の七)はこれを被害者児玉正治に、同中古鉄製黒塗手提金庫一箇(同押号の九)はこれを被害者川松光彦に、同中古ドライバー一本(同押号の一一)はこれを被害者寺岡和男に、同中古鉄製黒塗手提金庫一箇(同押号の一二)はこれを被害者中村長栄に、同中古鉄製青塗手提金庫一箇(同押号の一三)及び右金庫附属桐木片二十一箇(同押号の一四)はこれを被害者滑川三一郎にそれぞれ還付する。

本件公訴事実のうち、被告人が昭和二十九年八月十日頃日立市多賀町日製東雲寮から腕時計を窃取したとの点(起訴状別紙犯罪事実一覧表8の事実)につき、被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は旧満洲国奉天市蘇家屯において、満鉄蘇家屯駅助役をしていた父晴次の長男として生れ、同地で終戦にあつたため、昭和二十一年八月内地に引き揚げて日立市に居住するようになり、同市宮田小学校、平沢中学校に学んだが、学業成績も優良であつて、被告人自身は高等学校を経て大学にまで進学する希望を持つていたところ、家庭の都合ことに父親の強い要望により、昭和二十六年三月同中学校卒業後、高等学校への進学を諦めて二年制の日立工業専修学校機械科に入学することとなつた。右のように自分の希望が容れられなかつたためもあつて、同校において被告人は、とかく学業に対する熱意を欠いた結果成績も甚だ思わしくない状態になつたが、ともあれ昭和二十八年四月には同校を卒業して、同校研究科に籍を置くと同時に、日立製作所山手工場鋳造部鋳造課に勤務するようになつた。しかし、同所においても鋳造の仕事を嫌つて勤務に励まず、監督者の指示にも従わないという有様であり、僅か数個月にして退職するに至つた。その後、同年十一月頃より日立市助川の映画館日立キネマに映写技師見習として勤務したが、ここでも勤務成績は良好とは言えず、また、その生活態度をみても、金銭の浪費、飲酒その他真面目さを欠く行状が多かつたのであるが、一方家庭においても、被告人は、父親から冷遇を受ける許りでなく、被告人の問題で両親の間にも屡々争いが見られるという様なことから、不愉快な日を過さなければならないようになつたが、これ等のことから昭和二十九年六月頃には右映画館を退職した上、家を出て同市神峯公園、同大雄院墓地等に野宿し或は附近の空家等で夜を過すといつた生活に入り、その後非行少年として水戸家庭裁判所で審理を受け、家庭裁判所調査官の観察に付せられて一時家に帰つたが、昭和三十年七月頃再び家を出て右大雄院墓地や高萩市滝神社等に宿を求めるというような日を送つていたものであるが、この間、被告人は、

第一、昭和二十八年十月十八日より昭和三十年九月二十一日までの間、前後四十回に亘り、別紙犯罪事実一覧表記載のとおり、高萩市国鉄高萩駅事務室外三十一箇所において現金其他合計約二十一万九千三百円相当の各窃盗をなし、

第二、昭和三十年八月二十八日午後六時二十五分頃、日立市宮田所在日立市立仲町小学校小使室(管理者同校々長国府田卓)において、窃盗の目的で金品を物色中宿直員に発見されて逃走したためその目的を遂げず

第三、同日午後八時頃、日立市宮田千七百五十六番地質商滑川三一郎方帳場において、同人所有にかかる現金八千円位及び同人保管にかかる郵便貯金通帳二通、生活扶助通知書四通、公務扶助料証書四通、国債一通、日立製作所購買伝票三通位、金指輪三箇位、「路川」と刻してある木印(昭和三〇年押第一〇四号の一七の内)外木印三箇位等在中の右三一郎所有の中古鉄製青塗手提金庫一箇(同押号の一三、時価三千円相当)を窃取し、一旦同人方玄関前約六間の位置に当る同人方物置前までこれを持ち出した後、さらに窃盗の目的で屋内に戻り、同人方奥六畳間に到つて同室の東北隅にあつた箪笥の抽出を開けるなどして金品を物色するうち、たまたま同室に仮眠中であつた右三一郎の妻知賀子(大正七年二月十日生)が目を醒して布団の上に起き上つたが、同所に居る被告人を認めるや「泥棒」と叫びながら中六畳間の方に走り出したので、被告人は、戸外に飛び出して騒がれては通行人等に逮捕されると考え、逮捕を免れるため同女を阻止しようとして、とつさに、右中六畳の間で同女に追いつき、同女の背後からかかえるようにして右腕をのばし、右掌を同女の口辺りにあて、左手で同女の左手首を掴んだが、同女が被告人の右手に手をかけて下に引く様にして抵抗したため、同女の口辺りにあてていた被告人の右掌が下方にずれて同女の咽喉上部の辺りにかかつたのであるが同女がなおも抵抗したため、被告人はそのまま右掌を同女の頸部の後上方に強く押しつける様にしたところ、同女は失神して同所に倒れてしまつた。ここにおいて被告人は、同女に顔を見られてしまつた以上、犯行の発覚を防ぐには同女を殺害するより外に方法が無いと考えて罪跡を湮滅するため同女を殺害しようと決意し、同室にあつたメリンス紐(赤模様入、同押号の二三)を同女の頸部に一回巻きつけて強く引き締めたが、それが切れてしまつたので、さらにその切れ端を以て同様引き締め、これも亦切断されて目的を達しないとみるや、同所附近にあつた電気スタンドのコード(同押号の一九)を両手で引き切り、これを以て同女の頸部を緊縛し、因つて即時同所で同女を窒息死亡せしめて殺害の目的を遂げたものである。

(証拠関係)

右の事実は、

(中略)

第三の事実につき

一、被告人の司法警察員に対する昭和三十年十月十二日付(一二四五丁)同日付(一二五二丁、被告人作成にかかる図面一葉添付)、同月十五日付同月十六日付(一三〇五丁、同図面二葉添付)、同日付(一三一三丁、同図面一葉添付)、同月十八日付(同図面一葉添付)、同月十九日付、同月二十日付(同図面三葉一覧表一葉添付)及び同月二十一日付各供述調書中の記載

一、被告人の検察官に対する同月二十三日付、同月二十六日付同月二十九日付(被告人作成の図面一葉添付)同年十一月四日付(被告人作成の図面二葉添付)及び同月八日付各供述調書中の記載

一、司法警察員田中一及び司法巡査高野重学作成にかかる同年十月十四日付報告書(被告人作成の同日付図面一葉添付)中の記載

一、被告人の裁判官に対する同月二十七日付陳述調書(引用の検察官作成にかかる同月二十六日付送致書添付)中の記載

一、被告人作成にかかる同月十一日付寺門、平岡両名宛の手記中の記載

一、第五回公判調書中、被告人の「本件で取調を受けて起訴されるまでに、滑川三一郎方へ行つたことはなく、裁判所の検証の際、はじめて行つたものである。」「昭和三〇年押第一〇四号の一三の金庫、一五の敷布、一六の鉄棒管、一九の電気スタンド、二〇のプラグ付コード、二一の電気スタンド笠及び二三のメリンス紐は、警察では見せられず、調べの終りの頃日立警察署で野口検事から見せられた。」「図面は五、六枚書いた。後で書いた分は前の図面を全然見ずに書いた。それは滑川質店の家の中の図面である。」「警察で図面を書くとき、滑川方の図面も写真も見せられなかつた。」「検察庁で書いた時誰も居りませんでした。その時は何も見ず記憶に基いて書いた。」旨の各供述記載

一、第二十九回公判における被告人の「警察の調べのとき、最初自分の掌を被害者の口に当てたが、それが外れて、自分の掌が被害者の咽喉にあたり、絞めたら同人が気を失つてしまつたという様に述べたことは事実だが、それは自分の想像で述べたものである。」旨の供述

一、第三十回公判における被告人の「検察官に対し、被害者に手をかけて殺したと述べたとき、手真似をしながら説明したと思う。」旨の供述

一、第四回公判調書中証人平岡藤茂の供述記載

一、第九回公判調書中証人寺門司農夫・同疋田光衛の各供述記載

一、第十回公判調書中証人小堀繁の供述記載

一、当裁判所の証人滑川三一郎に対する昭和三十一年三月二十日付及び昭和三十三年四月二日付各尋問調書中の記載

一、第十五回及び第二十二回各公判調書中証人滑川三一郎の各供述記載

一、滑川三一郎作成にかかる被害届中の記載

一、滑川三一郎の司法警察員に対する同年八月二十九日付、同年九月二日付(記録三七九丁及び三九九丁)、同月三日付、同月八日付及び同年十月二十二日付並びに検察官に対する各供述調書中の記載

一、滑川三一郎作成にかかる答申書(図面一葉添付)中の記載

一、当裁判所の証人滑川弘に対する尋問調書

一、湯沢カツ、塙なみ(八二七丁)の司法警察員に対する各昭和三十年九月一日付の供述調書中の記載

一、当裁判所の証人島崎賢に対する尋問調書中の記載

一、当裁判所の証人平岡藤茂に対する尋問調書中の記載

一、当裁判所の昭和三十一年三月二十日付、同年十月二十五日付及び昭和三十三年三月三十一日付各検証調書中の記載

一、司法警察員作成にかかる検証調書中の記載

一、司法警察員作成にかかる昭和三十年八月三十一日付及び同年十月十四日付各実況見分調書中の記載

一、鑑定人青柳兼之介作成にかかる鑑定書中の記載

一、司法警察員大串竜作成にかかる同年十月二十一日付捜査報告書中の記載

一、日立警察署鑑識係主事根本七郎作成にかかる「金庫発見状況について」と題する報告書中の記載

一、峯トクの司法警察員に対する同年十月二十二日付及び検察官に対する各供述調書中の記載

一、第二十二回公判調書中証人森はぎのの、第二十三回公判調書中同森すいの各供述記載

一、内田善範の司法警察員に対する供述調書中の記載

一、滑川三一郎作成にかかる任意提出書中の記載

一、司法警察員作成にかかる同年八月二十九日付領置調書中の記載

一、押収の中古鉄製青塗手提金庫一箇(昭和三〇年押第一〇四号の十三)、金庫附属桐木片二十一箇(同押号の十四)、中古白敷布一枚(同押号の十五)、鉄棒管一本(同押号の十六)、路川と刻してある木印一箇(同押号の十七の内)、電気スタンド一箇(電球及びコード付、同押号の十九)、プラグ付コード一本(同押号の二〇)、電気スタンド笠一箇(同押号の二一)、メリンス紐四切(赤模様入、同押号の二三)の各存在

をそれぞれ綜合して認める。

なお、特に右第三の事実に関し、次の諸点について説明する。

一、被告人は、第三回公判において右事実が被告人の所為であることを否認し、その後、司法警察員及び検察官に対する被告人の自白が取調官の誘導によつてなされた虚偽の陳述である旨主張するに至つたので、先ずこの点について判断する。前掲証人疋田、同寺門、同小堀の各供述記載及び証人平岡に対する尋問調書中の記載によれば、昭和三十年十月十一日午前、日立警察署宿直室において、小堀巡査立会で疋田警部補が被告人の取調をしたが、取調べにあたつて同警部補は同日前の取調に於て被告人が犯行当夜の行動に付いて虚偽のアリバイの陳述をして居たので、具体的には前記第三の事実に触れず、専ら母の愛、神仏の尊厳等について被告人に説き聞かせていたところ、被告人は初め俯向いて涙を流していたが一時間余り経過すると声をあげて泣き出し、自分の頭を叩き、髪をかきむしり、「俺は馬鹿だつた。」と連呼する等して苦悶の情を表し始めたが、やがて、右事実を犯した旨をほのめかし昭和二十九年に窃盗事件の取調を受けた平岡警部補の取調を受けたい旨を述べたので、同日午後は平岡、寺門両警部補が代つて取調を続けたところ、被告人は、なお苦悶の状態を続けながらも徐々に右犯行を自供し、その夜は寺門、平岡両名に対する前掲手記を書いただけであつたが、翌十二日より詳細な自供をなしたものであることが認められ、さらに右証拠に、被告人の司法警察員及び検察官に対する前掲各供述調書(特に、検察官に対する同年十一月四日付調書)中の記載、田中、高野両名作成にかかる前掲報告書及び被告人作成にかかる添付図面、第五回公判調書中被告人の前掲供述記載を合せ考えれば、右事実に関するその後の取調においても、犯行の手段、方法、現場の模様等について、取調官から被告人に指示したり暗示を与えたりしたようなことは全くなく、すべて被告人が任意にその記憶に基いて供述し、犯行現場の図面を作成したものであることが認められる。しかして、この点に対する被告人の供述(第五回公判及び第二十九回公判等)をみるに、例えば被告人が作成した犯行現場の図面についても、要するに、取調官から四角な家の輪廓を書いた紙を渡され、家の間取り、家具の配置その他に関して取調官から具体的に指示されはしなかつたが、いろいろと暗示を与えられて書いたというのであるが、もし被告人の供述するとおりであるならば、前記第五回公判調書中の被告人の供述記載及び被告人の司法警察員に対する昭和三十年十月十二日付供述調書(一二五二丁)により認められるとおり現場を全く知らない筈の被告人が何人からも指示されず何等の資料もないのにもかかわらず、自供を始めてから僅か三昼夜の後に、前記田中、高野両名作成にかかる報告書によつて認められるように、独力で、少しも惑わずに、右報告書添付の詳細な図面を作成することは到底不可能な筈であり、この点のみから見ても被告人の誘導に関する供述は信用出来ない。

被告人は、第十八回公判に至つて、自白の動機として、日立警察署で係官から実弟和男が留置されているのを見せられ、隠していることを言えば和男を帰してやると言われたので虚偽の自白をしたと述べており、第十八回公判調書中被告人の実父である証人斉藤晴次の供述記載によれば、被告人は本件について少年鑑別所に収容されていた際、面会に来た両親に対しても同趣旨のことを述べたということであるが、被告人の検察官に対する前掲同年十一月八日付供述調書第五項の記載によれば、鑑別所で右のように述べたのは両親を安心させるためであつて、和男が日立警察署に留置されていることを被告人が知つたのは前記自供をした後であることが認められるので、自白の動機に関する被告人の前記供述もまた信用できない。むしろ、被告人が第一回公判において右犯行を自白していることは、右認定の被告人の司法警察員及び検察官に対する供述の任意性を裏書するものというべきである。

しかして、被告人の前記各供述調書の記載及びその作成にかかる現場図面を前記司法警察員及び当裁判所の各検証調書中の記載に対照すれば、被告人は犯行日時前滑川三一郎方を知らないのにかかわらず、被告人が供述し図面に作成した犯行当夜の滑川三一郎方の家屋の間取、家具の種類及びその配置被害者滑川知賀子及びその子供二名の寝ていた布団の位置(この点については、特に、前記図面(一三八四丁)に表示されている被告人の行動順路中屋外より奥座敷の(9)点箪笥に到る部分が同所に寝ていた者を避けたように曲つて部屋の隅を通つている点は注目に価する。)が犯行当夜の実状によく符号しており、また前掲証人平岡、同寺門の各供述記載被告人の前記司法警察員に対する昭和三十年十月十二日付供述調書(一二五二丁)中の記載及び前掲司法警察員作成にかかる同月十四日付実況見分調書中の記載によれば、被告人は同月十二日取調官に対し、被害者滑川方に侵入するにあたり同家の座敷前面の雨戸の地上より一米五十糎位のところにあつた破れ目から覗見した旨供述したが、それまでに取調官が行つた検証は昼間であつたため雨戸を開放した状態で施行されたので取調官側では誰一人右破れ目の存在を知らなかつたのであり、同月十四日平岡警部補が右雨戸の実況見分をしたところ被告人の供述に合致する破れ目が発見されたことが認められるのである。(これに対しても、被告人は、公判廷において取調官の誘導によるものである旨を述べているが、その供述は必ずしも前後一貫せず信用できない。)また、前記被告人の各供述調書の記載と当裁判所の証人滑川三一郎に対する昭和三十一年二月二十四日付尋問調書、同人の司法警察員に対する昭和三十年八月二十九日、九月三日付各供述調書及び検察官に対する供述調書、司法警察員の検証調書の記載を対照すれば、被告人が供述する滑川知賀子を殺害した手段、方法及びその位置等殺害の状況は、滑川三一郎が初めて右知賀子の死体を発見した時の絞殺の状況及び死体附近に散乱した電気スタンド、同コード、細紐また死体の位置及び畳の血痕に符合し、さらにその殺害の方法は、鑑定人青柳兼之介作成の鑑定書及び当裁判所の証人島崎賢に対する尋問調書中の記載と対照すれば、死体解剖における外表検査及び内表検査の結果と合致し、特に電気スタンドコードによる絞殺前、判示の如く手掌を以て右知賀子の頸部を圧迫して失神状態に陥らしめたことは殺害手段として特異なことであるところ、被告人は当公廷(第二十九回)において、この点は誘導によらない被告人の供述である旨自認するところであるが、右知賀子の死体の右下顎部の下縁及び頸部左側下顎部には右被告人の供述に符合して右手の拇指及び示指等の指跡と推定せられる楕円形の紫赤色の変色が四箇存し、その内景にはこれに照応する出血が認められて右被告人の供述を全く裏付けている。よつて、被告人の犯行の自白の内容は充分な裏付のあるものというべきである。

二、被告人作成の前記現場図面を司法警察員の検証調書(特に記録四八九丁、四九〇丁、四九六丁、同裏面の写真参照)に対照すれば、被告人作成の図面には、滑川三一郎方住宅と物置の間に存する倉庫の記載が脱落し、外燈の位置が異なり、玄関入口左側三尺の壁が硝子戸になつている等の誤が存するが、この誤は前段認定の事実に合致する部分に比較すれば些少なものであり且つ被告人の記憶が予期しない重大犯罪を行つた際の夜初めて見た家屋の記憶であることを考慮すれば、図面に右の程度の誤の含まれたことはむしろ自然であつて、何等前段認定に影響しない。

三、被告人は、第六回公判に至つて司法警察員及び検察官に対する前掲各供述調書中の、昭和三十年八月二十九日朝は下駄を履いて水戸へ行き次いで上京したとの供述をひるがえし、同日は革靴を履いて水戸に来り、これを水戸駅前柵町交番の左脇にある手荷物一時預り所に預け、同所でサンダルに履き換えたのである旨供述したのであるが、その後第七回公判において提出された革靴、新聞紙、木札(同押号の三四、三五、三六)及び司法警察員作成にかかる昭和三十一年五月十七日付捜査報告書、内田三次郎作成にかかる任意提出書、司法警察員作成にかかる同日付領置調書によれば、被告人は昭和三十年八月二十九日には、第六回公判における供述のとおり革靴を履いて水戸に来たものと認められるに至つた。しかしながら、従前、下駄を履いて来たと供述したことは、第六回公判において被告人自身、「日立から下駄で来たと言つたときは、靴のことを忘れており、途中で気がついたが、一旦下駄と言つてしまつたのでそのままにした。」旨述べていることからも判るように、被告人の思い違いであつたと考えられるのであり、従つて、被告人の前記各供述調書中この点に関する記載は真実に反することになるのであるが、これは供述の一小部分であつて他に供述の誤が認められない以上このことから右各供述調書中の他の部分の証明力全体が弱められるということはないものといわなければならない。

四、前記第三の事実及び前記犯罪事実一覧表30の事実により得た現金合計約一万七千円の費消状況について考えるに、前掲司法警察員に対する昭和三十年十月二十日付供述調書(一三五八丁)第三項及び附表の記載、検察官に対する同月二十三日付供述調書中の記載等によれば、被告人は同年八月二十九日朝より九月一日までの四日間に約一万六千円を費消し、しかもその使途の大部分が殆ど映画代、飲食代等であるというのであつて一見やや異常の感がしないでもないが、前認定の犯罪事実一覧表1、3、11、13、の各事実及び右各事実に対する前掲各証拠によれば、被告人は以前にも窃取した相当多額の金銭を短期間で映画代、飲食代に費消したことが屡々あるのであり、また前掲内田善範の司法警察員に対する供述調書中の記載によれば、被告人は日立キネマ在勤中も三千円程度の給料を支給されれば一時に全部費消してしまうといつた性格の持主であつたということが認められるので、これ等のことを合せ考えると、金銭費消に関する被告人の前記供述調書の記載は決して不合理なものでないと考えられるのであり、従つて、この点も前記各供述調書の信憑力に関係しないのである。

五、被告人の司法警察員及び検察官に対する前掲各供述調書(特に司法警察員に対する昭和三十年十月十六日付(一三一三丁)供述調書)中の記載によれば、被告人は滑川方より木印合計三箇を盗取したところ、そのうち明治神宮外苑のベンチで削つた一箇は「高」という字が刻してあり、上野のニュース館の便所に捨てた二箇には「田」及び「木」という字が刻してあつたと記憶するということであるが、前掲滑川三一郎作成の被害届及び同人の昭和三十三年四月二日付証人尋問調書中の記載その他をみても、盗取された木印は、宮本、荒木、泰野、路川とそれぞれ刻してあつたものと認められ、その中に「高」及び「田」の字の入つたものがあつたという証拠はない(右被害届中にある山田の印形は右証人尋問調書により盗取されたものと認めることができない。)のであつて、このことは、一応、被告人の右供述調書の内容と喰い違つているのである。しかしながら、被告人の木印に刻してあつた文字についての記憶について考えても、いずれも一字の記憶で、このこと自体その記憶が文字の一瞥による記憶に過ぎないことを推測せしめ、且つ、被告人のこの点に関する供述も確信ある供述ではないのであつて、かような事情の下において被告人の三字の記憶のうち最も字劃の少い「木」の字の記憶だけが滑川三一郎の前記証人尋問調書及び同人作成の被害届等被害者側の証拠に合致して確認せられ他の二文字が確認せられなかつたということは決して不合理ではないので、結局、前記喰い違いによつて木印処分に関する被告人の前記供述調書中の記載が虚偽であり従つて同調書の他の部分の信用性も疑われるという関係はないのである。

六、司法警察員作成にかかる同年十月二十二日付実況見分調書、司法警察員作成にかかる同月十七日付捜査報告書(遺留品発見)中の各記載及び前掲証人平岡の供述記載並びに押収の縞模様木綿風呂敷一枚(昭和三〇年押第一〇四号の二五)の存在等によれば、被害者滑川方より持ち出した風呂敷を捨てたという被告人の自供に基いて現場である宮田川日立橋附近を捜索したところ、押収にかかる右風呂敷を発見したことが認められ右風呂敷は被告人が持出した滑川方の風呂敷に類似しておるが、右風呂敷が右被害者方の風呂敷であるということを断定するに足る証拠はないのである。また、証人疋田光衛尋問調書中の記載、当裁判所の昭和三十一年五月十四日付検証調書中の記載、押収の剃刀(同押号の二七)の存在等によれば、被告人の盗取した木印を上野の浴場万座温泉で買つた剃刀で削つたという自供に基き、明治神宮外苑ベンチ附近を捜索したところ押収にかかる右剃刀を発見した事実を認めることができ、右剃刀が万座温泉で発売されたものと類似して居るとはいえるが同一であることを確認するに足る資料もなく、また、これを被告人の司法警察員に対する昭和三〇年十月十九日付(一三四七丁)供述調書添付の剃刀の図面に対比しても、刃こぼれの状況、柄の部分の色、形状、溝の有無等種々異る点が認められるので、発見された右剃刀が被告人の木印を削つたものであると断定はできないのである。被告人が盗取した通帳類を大雄院で焼いた旨の自供の裏付として検察官の提出した紙片焼灰(同押号の二六)もまた前同様その灰と確定し得られないので断罪の資料となし得ない。しかしながら、これ等のことは被告人の自白は犯行の部分に於ては前段認定の如く充分な裏付があるので被告人の司法警察員及び検察官に対する前掲各供述調書のうち、右のように風呂敷を投棄したという部分及び木印を削つたという部分通帳類を焼いたという部分についてその裏付となり得る物的証拠がないというに止まり、一体である前記自白の主要部分によつて支持せられる右各部分の信用性ひいては右各供述調書全体の証明力を減殺するという関係は少しもないのである。

七、第二十回公判調書中証人峯トクの供述記載及び同人の司法警察員に対する昭和三十年八月三十日付供述調書中の記載によれば、右峯トクは昭和三十年八月二十八日夜滑川三一郎方で質物を受け出し、それを一旦同人方に預けてパーマネント屋へ行き、同日午後八時三十分頃再び滑川方に右質物を受け取りに寄つたところ、電燈の消えている屋内から知賀子が出て来て、電燈をつけずに質物を改めて行く様にと言つたとのことであり、仮に、これが事実であるとすれば、前記認定の事実と時間的に喰い違うのであるが、峯トクの右供述は、暗中で質物を改める様に言つた等という点等から考えて、それ自体不合理である許りではなく、公判調書中証人森はぎの、同森すいの前掲各供述記載及び峯トクの前掲司法警察員に対する同年十月二十二日付及び検察官に対する各供述調書中の記載によれば、自己に疑のかかるのを恐れてなした虚偽の供述であることが認められ、従つてこの点も前記認定に反するものではない。

以上のとおりで被告人の自白はその供述の経過からしても又その内容からしても信憑性あるものであつて右二乃至七の各点はいずれも前記第三の事実認定の妨げとはならないのである。

(法令の適用)

被告人の判示所為中、第一の各窃盗の点は刑法第二百三十五条に、第二の窃盗未遂の点は同法第二百四十三条、第二百三十五条に、第三の強盗致死の点は同法第二百四十条後段、第二百三十八条にそれぞれ該当するところ、強盗致死の点につき所定刑中無期懲役刑を選択し、以上は同法第四十五条前段の併合罪でありその一罪につき無期懲役に処すべきときであるから同法第四十六条第二項本文により他の刑を科せず被告人を無期懲役に処し、押収にかかる鉄製黒塗手提金庫一箇(昭和三〇年押第一〇四号の二)は前記犯罪事実一覧表28の窃盗の、同中古白毛糸セーター一着(同押号の七)は同34の窃盗の、同中古鉄製黒塗手提金庫(同押号の九)は同39の窃盗の、同中古ドライバー一本(同押号の一一)は同35の窃盗の、同中古鉄製黒塗手提金庫一箇(同押号の一二)は同40の窃盗の、同中古鉄製青塗手提金庫一箇(同押号の一三)及び右金庫附属桐木片(同押号の一四)は前記強盗致死のそれぞれ賍物であつて被害者に還付すべき理由が明らかであるから刑事訴訟法第三百四十七条第一項によりこれ等を主文第二項記載のとおりそれぞれ各被害者に還付し、訴訟費用は同法第百八十一条第一項但書に従つて被告人に負担させないことにする。

(起訴状別紙犯罪事実一覧表8の事実についての無罪理由)

勝村賢作成の被害届中の記載及び司法警察員作成の見分報告書(三九丁)中の記載によれば、昭和二十九年八月九日午後十二時頃より同月十日午前六時三十分頃までの間に、日立市多賀町成沢日製東雲寮において勝村賢所有の腕時計が窃取された事実が認められるが、右が被告人の犯行であるという点に関しては、被告人は第一回公判廷において自白したが第二十九回公判廷でこれを否認し、東雲寮からは煙草は窃取したが時計は窃取していない旨供述しており、また、被告人の司法警察員に対する昭和二十九年十一月二十二日付供述調書第七項には一応右腕時計を窃取した旨の記載はあるが、その内容は必ずしも詳細とはいえず、さらにその処分先は覚えがない旨記載されておるが他の窃盗については同様な賍品はいずれも処分先が明らかであるのに、この腕時計について終始処分先が不明であることは特に右自白をたやすく信頼できない所以でその他に右窃盗が被告人の所為であることを認定するに足る証拠はない。従つて右事実については犯罪の証明がないものとして刑事訴訟法第三百三十六条により無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(犯罪事実一覧表略)

(裁判官 小倉明 浅野豊秀 楠賢二)

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